綾瀬駅から徒歩7分の場所に創業1959年の銭湯「玉の湯」がある。玉の湯は、昔ながらの銭湯のイメージを一新するような魅力がある。暖簾をくぐるとアットホームな空間の中に、明るくポップな雰囲気が漂っている。この不思議な空間を作り上げた根底には、なにがあるのだろうか。玉の湯の魅力について、店主の堀田晃一(ほりた こういち)さんに話を伺った。
マイナスイオン水を湯として使う玉の湯
可愛らしいポップなデザインの暖簾をくぐると、堀田さんが迎えってくれた。玉の湯は、大浴槽にサウナ、水風呂を完備。大浴槽の半分は「ポイントマッサージフロ」になっている。玉の湯の特徴は、井戸水をろ過したマイナスイオン水を湯として使っていること。
玉の湯の値段は大人520円。サウナを利用する場合は900円のセット。セットはお得な内容になっており「大小タオルセット、リストバンド、湯上りの飲み物」が付いてくる。
魅力の創造を大切した銭湯作り
従来の銭湯とは、どこか違ったポップな雰囲気を感じる玉の湯。どんな点にこだわって玉の湯を運営しているのか伺った。
「銭湯を行う上で、料金は決まっているからいじるのはダメ。じゃあ、それ以外で『魅力の創造』ができる点はないかと考えた。そして、やり始めたのが店の中にシールを貼ってポップにしたり、サインを飾ってみたりした。お金を出さずに知恵を出したわけだね。」
確かにお金をかければ、設備投資ができて同業他社との差別化がはかりやすいもの。ビジネスとして設備を強化するのが定説ではあるだろう。
しかし、堀田さんはその流れを「それではつまらないし、体力勝負になるだけ」だと語る。堀田さんが何よりこだわったのが「魅力の創造」。限られた投資額でできること。みんながやってないこと。この考えを大切にして作り出した銭湯が玉の湯なのだ。
玉の湯の暖簾や浴槽の壁には、明るく可愛らしいキャラが散りばめられている。そして、店内には著名人のサインが並ぶ。これまでの経験や知識を活かし、形に縛られないアイデアで魅力的な銭湯を作り上げているのが伺える。
店内の壁にはズラッと並べられたサイン。サラリーマン時代の個人的な繋がりや玉の湯を始めてからの付き合いが広がっていき、気付いたらサインが集まったのだとか。
「このサインをみなさんに見せた方が、信頼が上がる気がしたんですよ。こういう人達も来ているという足跡が、間接的に玉の湯のアピールになる。それが、うちならでは価値。」
サインに対して特にお客さんは反応するわけではない。ただ見ているだけだと言う。しかし、そこから何かを感じてくれていると堀田さん考えているようだ。
大胆にパイナップルを投入するフルーツ湯も開催!
魅力の創造を大切にする堀田さんだからこそ、できる玉の湯ならではの「フルーツ湯」がある。それは、豪快にパイナップルを湯船に入れること。パイナップルを湯船に入れる銭湯はあまりないだろう。どうして入れようと思ったのかきっかけを聞いてみた。
「柑橘系は他にも入れていたけど。その他にも変化球を探していました。そのとき時に、沖縄の友達が青パパイヤの存在を教えてくれたんですよ。ただ、当時は沖縄から空輸しないといけないため、コスト面が合わずに青パパイヤは不採用にしました。それと青パパイヤだと。ちょっとインパクトが足りない。その点、パイナップルは見ればわかるし、良い香りがするからわかりやすい。こうした大衆的なモノと、インパクト、コストパフォーマンスを総合してパイナップルを入れました。一つの軸としてパイナップルを入れているところはなかなかないでしょう。色々なフルーツ湯をする上での、こだわりの一つです」
わかりやすくてインパクトを求めた結果。パイナップルに辿りついたようだ。その大胆で冒険心に溢れた考え方が玉の湯の魅力を高めているのだろう。
度重なる転機の末に玉の湯を継いだ
玉の湯は、堀田さんが生まれた時からお父様が営んでいた。しかし、すぐに仕事を継いだわけではなかったと言う。堀田さんは大学を卒業後はサラリーマン生活を20年ほど経験し、紆余曲折を得てから、一つの大きな転機をきっかけに玉の湯を受け継いだ。
「私は大学で工学部を専攻するエンジニアだったんですよ。それもあり、機会メーカーに入社して技術系の職員として採用されました。ところが、なぜか営業部に配属されましてね。ただ、技術的な部分は理解していたので、モノを売るわけではなく。営業の後方支援をするポジションでした。資料の作成や整理。役所への対応など。いざとなったらリリーフで出ていく感じの仕事でしたね。」
営業職からスタートして、次第に開発担当も任されるようになっていった堀田さん。先輩方が手を付けないような開発担当をすることになり、先の見えない不安を感じていたと語る。しかし、大きな転機が舞い込み。堀田さんの人生を大きく変えていった。
「よく分からない状態で始めましたが。運よく国の施策とリンクして使える技術なのが、わかりまして。3年後に開発した技術が大ブレイクしたんですよ。すると、その技術の分野が急成長をして、競合他社も似たような商品を生産し始め、それで業界に混乱が生じてきた。そこで、メーカーが横断的に仕事に取り組めるように整備する話が持ち上がり。公益法人を作る流れになりました。その際に引き抜きされたんですよ。」
様々な人と横の繋がりで話ができる機会は滅多にないため、面白そうだと思った堀田さんは勤めていた機会メーカーを5年で辞めたという。そして、ヘットハンティング先へ。
「日本で技術が整備されていくと。今度はインターナショナルでも認められてね。アメリカの国際会議にカバン持ちとして参加したこともあったよ。」当時を楽しそうに振り返りながら話してくれた。
紆余曲折しながらも、堀田さんは活躍のフィールドを広げていったのだ。ところが、当時42歳の時に、もう一つの大きな転機が訪れる。ある程度、業界が落ち着いてきて、次を考えて行動しようとした矢先に…
「うちの親父が病気になってね。かなりくたびれた状態でして。しばらくは生きたんだけどね」と言葉を濁しながら語ってくれた。突然、訪れたお父様との別れがきっかけとなり、堀田さんは玉の湯の仕事を引き継ぐことに。
独自路線を進む“宇宙人”だと思われていた
「地元の組合の一兵卒から。この業界をゼロからスタートしたんですよ。」と心機一転して、玉の湯の仕事を始めたものの、右も左もわからない状態。そのため、当時は大変な苦労もしたと言う「いじめらたよ。俺は彼らにとって宇宙人だったからね。」
よそ者から来た新参者に対して、すでに出来上がっている業界の考え方は厳しかったようだ。
「こちらの業界の人って親分子分がしっかりできていて。昔は銭湯が1400件近くあったけど。今は400件を切っているんだよ。急速に減り出したのは親分子分の関係だったからだと思う。子分は親分から何も教えてもらえない状況で世間が変わっていくわけですよ。親分の言うことを聞けば、間違いないと思ってね。何もしないでいるから何もできなくなるわけ。それで衰退していくんだよ」
その点、堀田さんは業界のしがらみに縛られることはなく。サラリーマン時代の知識と経験を活かして、独自性を出したやり方で玉の湯を運営していった。業界の型にはまらない自由なスタイルが、他の人が見たら「俺は宇宙人に見えるわけだよね。」と語る。
「それに私の独自性は、お客様にも受け入れられているから嫉妬もあるだろうね。それから、気づけば巡り巡って足立区の支部長になって、今では私が親分の立場です。私がやっていることは間違いなかったと証明になった。」
人と違うことをするのは勇気を伴うもの。それでも、堀田さんは周りからの批判や嫉妬、嫌みを乗り越えて、自分のできる独自性を打ち出してきた。そして、しっかりとお客様に喜んでもらえる銭湯を作り、自身のやり方に自信が持てるようになったのだろう。
玉の湯の「生命線」は責任と創造性
アイデアと人の繋がりを大切にして運用を続ける堀田さんに今後の目標を伺ってみたところ。「夢なんかないよ」と微笑みながら言う。そして、ゆっくりと玉の湯が大切にしていることを語ってくれた。
「やはり継続することですかね。今…足立区役所が足立にある銭湯を環境資源として打ち出そうと進めてくれているので、それにリンクしていくことが大切。こうした追い風が吹いて、公的な仕事としての役割もあるので頑張っていかなきゃいけない。社会的な役割が十分あるし、重要な立場を背負っているなと思います。個人商店は自由に営業できますが。それとは、少し違う立場にいるのでしっかりしないとね。」
今後も様々な人との出会いが「玉の湯」の可能性を広げていくのだろう。それには、銭湯としての役割。玉の湯としての立ち位置など責任が伴ってくるもの。
「うち一軒が変なことをすると、皆さんに迷惑かけてしまう。そこを肝に銘じて、迷惑かけないように“魅力の創造”をしていくつもりです。それが玉の湯の生命線になるのかな。そこを意識していければ、自ずと道は開けるのかなと思っています。」
枠や形に囚われない玉の湯。これからも“魅力の創造”を大切した楽しい空間を与えてくれる銭湯を提供してくれるだろう。